第121回 関所番士(せきしょばんし)と神道無念流(しんとうむねんりゅう)
更新日:2024年4月1日
問い合わせ先:文化振興課文化財・歴史資料係
栗橋関所では、江戸時代を通じて、4つの家から2人の関所番士が交代で出勤してその任にあたっていました。関所番士は、関所を通行する大名や幕府役人などの送迎を手配したり、関所に詰めて通行人の手形(てがた)を受け取りながら出女(でおんな)や入り鉄砲(いりでっぽう)等の確認をしたりするといった業務が主な役割でした。
ただ、幕末に向かって政情不安になるにつれ、非常時への対策を図る必要が出てきます。その結果、関所番の家(冨田家・島田家・足立家・加藤家)では、剣術を習う人が出てきました。なかでも本市上清久にある神道無念流宗家戸賀崎家に入門する人が多くみられます。早いところでは、戸賀崎家初代知道軒暉芳(ちどうけんてるよし)の門人として冨田庫之丞や足立十右衛門周正が、戸賀崎家三代喜道軒芳栄(ちどうけんよしひで)の門人として冨田貞蔵や足立金太郎正恒が、それぞれ現れました。また、芳栄と戸賀崎家四代尚道軒芳武(しょうどうけんよしたけ)の2人に連なる門人として、足立柔兵衛、島田一之輔、加藤杢兵衛、加藤善造が現れます。
このうち、島田一之輔は、ペリーが来航した後の安政(あんせい)4年(1857)に、16歳で芳栄に師事しています。慶応(けいおう)2年(1866)には、芳武から初伝目録(しょでんもくろく)を授けられるなど、師の代理を務められるほどになりました。晩年には免許皆伝(めんきょかいでん)を授けられ、直道軒を名乗ります。
また、足立柔兵衛は、桜田門外の変があった万延(まんえん)元年(1860)の12月に、銭百文と半紙二帖を持参して芳栄に入門しています。その際、正八幡宮(しょうはちまんぐう)・飯綱大権現(いいづなだいごんげん)・摩利支天尊(まりしてんそん)を拝礼し、巻物に姓名を認(したた)めて左手で血印(けちいん)した後、芳栄から稽古律(けいこりつ)を読み聞かせられ、御神酒(おみき)を飲んで、入門を許されました。その後の稽古を、関所内で行うこともあったようです。
剣術を学んだ幕末の関所番士に思いを馳せて、県指定文化財の栗橋関址(くりはしせきあと)を見学してみてはいかがですか。
直道軒嶋田君墓銘部分(常薫寺)
県指定文化財「栗橋関跡」
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