第70回 伊藤東岳(とうがく)の遺徳碑(いとくひ)
更新日:2018年7月25日
菖蒲町下栢間(かやま)の栢間小学校の前に、ひときわ大きな石碑が建っています。
題字は、碑が建てられた大正14年(1925)当時商工大臣であった野田卯太郎(うたろう)によるもので、「伊藤東岳翁遺徳碑」と書かれています。野田は、本市にもゆかりのある渋沢栄一や徳富蘇峰(とくとみそほう)等とともに学校法人国士舘(こくしかん)を設立した人物です。
文章は、当時司法大臣秘書官であった山崎猛(たけし)によるものです。
この文章によって、以下東岳を紹介します。
東岳の諱(いみな)は英良(えいりょう)、字(あざな)は亀次郎、東岳は号です。この地域では代々漢学者を輩出することで知られていた家に、安政(あんせい)4年(1857)9月19日に生まれます。幼い頃から学問を好み、家学(かがく)に親しみ、大きくなると東京に出て大家(たいか)に学びます。明治12年(1879)に栢間小学校の教員に、その後校長になって、明治40年(1907)に退職します。退職後は薫陶舎(くんとうしゃ)という私塾を開いて弟子を育てていましたが、明治42年(1909)に栢間村の村会議員となり、その後村長になって、大正10年(1921)8月25日に病気で亡くなります。享年(きょうねん)65歳でした。
人を育てるのを楽しみとし、300人近くの教え子を育てました。また、村長の職にあるときは、財政を整理し、美しい風習を残そうと努めました。先生と生徒の信頼関係が崩れてきた時代に、道徳を励みつとめ、身をもって社会の気風や個人の心を先導したということです。
碑の裏側には、東岳の遺言(ゆいごん)の和歌二首が認(したた)められています。
民草に 花を咲かせてその花を われに手向(たむ)けよ 子孫までも
世の人よ みずから治む心もて 国をも家も 守りこそすれ
伊藤東岳翁遺徳碑
所在地
伊藤東岳の遺徳碑(栢山小学校入口付近)
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