第144回 スポーツ医学の先駆者(せんくしゃ) 高木(たかぎ)たすく(注釈)
更新日:2024年4月1日
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高木たすくは、明治26年(1893)に、現在の久喜市下清久(しもきよく)の代々医師の家に生まれ、大学卒業後の大正11年(1922)に自宅で小児科(しょうにか)を開業し、昭和12年(1937)には清久村の村長に就任、昭和21年(1946)には埼玉県医師会長にも就任するなど、当地域に様々な貢献をしました。
一方、弓道家としても有名で、本多流(ほんだりゅう)の重鎮(じゅうちん)として宗家(そうけ)を支え、弓道界の要職にも就いていました。昭和38年(1963)には、最高位である十段位に昇段(しょうだん)するなど、わが国の戦後の弓道復活に尽力した功績は多大なものがあります。
そのたすくには、「弓術の医学的常識」という著作があります。昭和13年(1938)出版の『弓道講座第五巻』の中に書かれた全32ページの論文です。当時、各流派の前例を重要視した武道書が多かった中、この論文は異彩(いさい)を放っています。当書は、流派を問うことなく、医師としての科学的な目線で、弓術を実践する際の体の動かし方等を説いています。まだスポーツ医学といった概念がなかった当時、とても先進的な論文でした。
本文には、「無駄力(むだぢから)を使はぬ事、力(りき)まぬ事」、「筋力は必要以上に用ひぬ様にする事が肝要」、弓を引いている状態が「長くなれば長くなる程(ほど)、疲労物質は増加し、能率は低下する」という医学的な見解が詳細に書かれており、「骨格を無視した無理な形」や「運動生理を無視した無理な運動」は、体育上、決して有益ではないという、たすくの強い信念を知ることができます。
たすくは、昭和39年(1964)5月に病没します。財団法人全日本弓道連盟の宇野要三郎(うのようざぶろう)会長による弔辞(ちょうじ)には「医学的蘊蓄(うんちく)を傾倒して新時代にふさわしい弓道の科学的研究の基礎を確立され、弓道指導の合理化に」尽力されたとあり、たすくの生涯を的確に表現しました。
令和2年(2020)3月8日に久喜市「健幸(けんこう)・スポーツ都市」宣言をした本市にとっても、スポーツと医学の融合をめざしたたすくの姿勢は、今なお学ぶべきところがあるでしょう。
※注釈
「高木たすく」の「高」の字は、正しくは「はしご高」です。
「たすく」は、「非」の下に「木」の字です。
「弓術の医学的常識」内の図
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