第29回 会津藩士の伝説を伝える 会津見送り稲荷(あいづみおくりいなり)
更新日:2016年3月23日
市指定文化財会津見送り稲荷の内殿および神体は、久喜市栗橋東の国道4号沿いにある民家敷地内の「会津見送り稲荷」と呼ばれる祠(ほこら)に祀(まつ)られています。毎年3月の初午(はつうま)の日に近い日曜日にはお祭りが開かれ、にぎやかな雰囲気となります。
会津見送り稲荷の神体とそれを納める内殿はともに木製で、神体には彩色が施され、仏教で稲荷を意味する茶吉尼天(だきにてん)が狐に乗った姿を現しています。この形態の像は、豊川(とよかわ)稲荷(いなり)(愛知県豊川市)をはじめ、寺院で稲荷を祀る場合に多く見られ、神道と仏教が混在し、融合して信仰されていた時代の様相をよく現しています。
また、神体の底面には、付近にある常薫寺(じょうくんじ)の住職が文政年間(1818~1830)にこの像を奉納したことが記されています。
会津見送り稲荷には、この他に天明5年(1785)に陸奥国(むつのくに)会津藩(福島県会津若松市)の藩士が奉納した手水鉢(ちょうずばち)があり、名称の由来ともなった次のような伝説が伝わっています。
江戸時代、会津藩士が、参勤交代(さんきんこうたい)の先遣隊(せんけんたい)として日光道中(にっこうどうちゅう)を通行し、江戸へ向かったところ、栗橋付近で出水のため通行できなくなりました。道筋も分からなくなり困り果てていたところ、どこからともなく現れた白髪の老人の道案内によって、この藩士は無事江戸までたどり着くことができました。そして、後にこの老人が狐の化身と分かり、栗橋の地にお祀りしたのだといいます。
また一説には、茶店で休憩中の会津藩士が大事な物を忘れたことに気づき、責任を感じて死を決意したところ、白髪の老人が現れ、死を思い止めさせたともいいます。
このように、会津見送り稲荷は、遠く離れた会津地方の人物の足跡を今日に伝えています。江戸と日光、そして東北地方を結び、さまざまな人々が往来した日光道中に関わる本市ならではの文化財といえましょう。
会津見送り稲荷
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