第2回 静御前(しずかごぜんの)の伝承
更新日:2018年7月25日
栗橋駅周辺の伊坂地区には、源義経(みなもとのよしつね)の恋人であった静御前の悲恋にまつわる伝承が語り継がれています。
静御前は、舞を職業とする白拍子(しらびょうし)の磯禅師(いそのぜんじ)の娘で、当代随一の白拍子と評されていました。室町時代初頭に書かれた『義経記(ぎけいき)』には、後白河法皇が雨乞いの儀式で100人の白拍子を順番に舞わせたところ、100人目の静御前が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いたことから、法皇より「日本一」と称されたと記されています。
この静御前にまつわる伊坂地区の伝承では、兄源頼朝(みなもとのよりとも)に攻められ、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、義経の討死(うちじに)を知り、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189)9月15日に伊坂で亡くなったとされています。静御前の遺骸は、伊坂の高柳寺に埋葬されたと伝えられます。なお、高柳寺は、後に中田(なかた)(現在の茨城県古河市)へ移転し、光了寺(こうりょうじ)と名を改めています。光了寺には、雨乞いの儀式で与えられたとされる「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」が静御前の遺品として伝えられています。
また、栗橋北の経蔵院(きょうぞういん)の本尊「地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)」(市指定文化財)には、静御前の持仏(じぶつ)との伝承が残されています。
現在、栗橋駅東口から徒歩1分の場所にある「静御前の墓」(市指定史跡)は、享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代(ぐんだい)であった中川飛騨守(なかがわひだのかみ)忠英(ただてる)が、静御前の伝承を聞き、墓に墓標がないことを哀れみ建立したものです。
この「静御前の墓」には、当初は墓標の代わりとしてスギの木を植えたとの伝承があります。文化・文政期(1804・1829)に編さんされた『新編武蔵風土記稿』には、「静御前の墓」と共にスギの大木が挿絵に描かれています。このスギは、弘化3年(1846)の利根川の氾濫により枯れてしまっています。
大正12年(1923)には地元の有志によって静女古蹟(しずじょこせき)保存会が結成されています。現在では静御前遺跡保存会によって、静御前の命日と伝えられる9月15日には毎年墓前祭が営まれています。静御前の伝承は今もなお地元の人々によって語り継がれ、守られています。
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