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第86回 ~神楽を救った笛の名人~白石國蔵(しらいしくにぞう)と鷲宮催馬楽神楽(わしのみやさいばらかぐら)

更新日:2019年5月31日

 現在、国の重要無形民俗文化財に指定されている鷲宮催馬楽神楽は、昭和10年代には伝承者が徐々に減っていき、衰退しつつありました。そして、伝承者は、江戸時代から代々鷲宮神社の神楽役(かぐらやく)を務める家に生まれた白石國蔵(1891~1966)ただ一人となってしまいました。
 神楽のおかれた状況を憂いた國蔵は、同じく江戸時代から神社に仕える家に生まれた針谷健次(はりがやけんじ)のもとを訪ね、神楽復興の尽力を要請しました。
 昭和30年(1955)に神楽の笛の音がNHKラジオで全国放送されたことを好機として、針谷健次(復興会長)らが中心となり、若者たちを集め、國蔵を指導者に神楽の復興が始められました。このときは、「神楽を習いにくれば、飯をくわせる」という約束で、一時は多くの若者が集まりました。しかし、國蔵の指導は熱心で、しばしば夜半まで行われ、冬場は寒さで神楽殿(かぐらでん)にあった湯飲みの水が凍るほどで、練習は辛かったといいます。そのため、多くの人々がやめ、最後に残った6人の若者により神楽が復興されました。
 なお、國蔵は舞や太鼓をリードする笛を担当していたため、神楽のすべてを習得しており、その技を後世に伝えることができました。
 國蔵は、日常の生活は質素でまるで仙人のような生活を送っていたといわれています。また、神楽の指導に夢中なあまり、しばしば田植の時期を逸して弟子たちが手伝ったといいます。
 晩年、病気がちであった國蔵は、鷲宮神社の宮司を訪ね、「神様が夢枕に立って『あと3年お前に命を与えるから、神楽を最後まで伝えよ。』との神のお告げがありました。わたしはこの神楽を伝えなくては死ねません。」と言ったそうです。それから一生懸命神楽を伝えた後、宮司に「これで安心して逝けます。3年努めました。わたしの命を神が永らえて下さったのです。」といい、それから間もなくこの世を去ったそうです。
 現在、國蔵に直接指導を受けた保存会員は、1人になってしまいましたが、この技は今も受け継がれています。


白石國蔵

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