第31回 時代の転換を象徴する利根川への架橋(かきょう)
更新日:2016年3月23日
鉄道や自動車の無かった江戸時代、大量の物資を運ぶ最適な手段は、舟を使った水運でした。利根川やその支流の河川は、多くの舟が行き交う重要な輸送路となっていました。
一方、利根川は江戸と日光を結ぶ日光道中(日光街道)の最大の難所でもありました。将軍の日光東照宮への社参(しゃさん)時には仮設の橋が架けられましたが、軍事上の理由などから常設の橋はなく、栗橋から対岸の中田(なかだ)(現:茨城県古河市中田)へは舟を使って渡りました。江戸時代にはこの渡船を房川渡(ぼうせんのわたし)と呼びました。
明治時代になっても水運は重要な輸送手段の一つでしたが、一方で新たな輸送手段の主役となるべく各地で鉄道が敷設されていきます。市域では明治18年(1885)に、日本鉄道会社第二区線(現JR宇都宮線)が開通しました。ただし、鉄道開通時に利根川の橋は完成しておらず、乗客はいったん鉄道を降り、舟で利根川を渡っていました。翌年になって鉄道橋である利根川鉄橋が完成しています。
その後、大正時代に自動車の利用が拡大してくると、舟による国道の渡河(とか)が障害となり、大正13年(1924)に道路橋である利根川橋が完成しました。同時に、利根川の渡船は廃止となりました。
利根川鉄橋や利根川橋の架橋は、物資の輸送が水運から陸運へと移っていく時代の象徴的な出来事だったといえるでしょう。
郷土資料館でただ今開催中(平成26年3月22日(土曜)~6月29日(日曜))の第4回特別展「懐かしいふるさとの風景-久喜を写した古写真展-」では、明治30年代頃の利根川や渡船の写真、大正6年の利根川鉄橋複線化工事や大正13年の利根川橋架橋記念の絵はがきを展示しています。
このほか明治時代から昭和30年代頃までの市内各地の町並みや祭り、神社仏閣、学校などの写真を紹介しています。6月29日(日曜)まで開催していますので、ぜひご見学ください。
利根川渡船の舟
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