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第18回 銅製阿弥陀如来立像(どうせいあみだにょらいりゅうぞう)

更新日:2018年7月25日

現在、郷土資料館常設展示室に、市指定有形文化財銅製阿弥陀如来立像の複製が展示されています。

この仏像は、久喜市上川崎の正蓮寺(しょうれんじ)の本尊仏として今日に伝わったもので、正蓮寺は古河公方(こがくぼう)家臣で幸手城(幸手市)主の一色直朝(いっしきなおとも)が開基(かいき)した寺院と伝えられています。

仏像の高さは約22センチメートル。両手首より先を除いた身体全体を銅で一体に鋳造したもので、それらとは別個に鋳造された両手部分が、ロウで接着されています。

また、仏像の背面には、製作年や願主の名が刻まれており、その銘文によれば、もとは元亀3年(1572)10月に武蔵国長井庄目(ながいのしょうめ)沼郷(ぬまごう)(熊谷市妻沼)の坂木神左衛門(さかきしんざえもん)という人物が、念仏本尊として造立したことが記されています。坂木神左衛門は目沼郷の有力な住人とみられ、個人的な礼拝仏としてこの仏像は製作されたようです。その後の経緯は不明ですが、正蓮寺に伝わり、本尊仏となりました。

阿弥陀如来は、平安時代の浄土信仰から、阿弥陀如来の功徳によって極楽浄土に往生できると説かれ、広く信仰されるようになりました。阿弥陀仏への信仰の進展に伴って、仏像も盛んに作られるようになりました。

さて、この仏像が鋳造された当時は、戦国時代の真っただ中にあり、相模国(神奈川県)の北条氏康(うじやす)・氏政(うじまさ)、甲斐国(山梨県)の武田信玄(しんげん)、越後国(新潟県)の上杉謙信(けんしん)ら戦国大名が激しい抗争を繰り広げていました。元亀2年(1571)には、武田信玄が北条氏領国へ侵攻し、久喜周辺にも行軍しています。また、元亀3年(1572)から翌年にかけては、北条氏政が上杉側の羽生城(羽生市)、関宿城(千葉県野田市)等の拠点を攻撃し、救援のため出兵した上杉謙信と対峙しました。目沼郷や久喜市周辺地域は、これらの戦国大名が入り乱れて争う最前線だったのです。

戦火の絶えない不隠な時代を背景に、坂木神左衛門は阿弥陀如来へ願いを込め、この仏像を作ったものと思われます。

写真 銅製阿弥陀如来立像(左:正面、右:背面)
銅製阿弥陀如来立像

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