第79回 弓と槍の名手 内藤正成(ないとうまさなり)
更新日:2018年12月3日
菖蒲町(しょうぶちょう)下栢間(しもかやま)に陣屋を構えた内藤四郎左衛門(しろうざえもん)正成は、大永(だいえい)7年(1527)、内藤清長(きよなが)の弟・忠郷(たださと)の次男として生まれます。はじめは伯父の清長のもと上野城(愛知県豊田市)で育ち、やがて徳川家康に仕えることになります。
正成の初陣は16歳の時で、織田信秀(のぶひで)(信長の父)の兵と槍を交え手柄を立てました。三河一向一揆(みかわいっこういっき)の際には、家康を討ち取ろうとした伯父石川十郎左衛門の両膝を射抜いて撃退しました。この負傷が原因で伯父は亡くなりました。
武田信玄と戦った三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは、敵陣で奮闘していた息子正貞(まささだ)のもとに駆け寄り、槍を使って敵を打ち払いながら無事に退却しました。また武田勝頼(たけだかつより)と戦った長篠(ながしの)の戦いや、豊臣秀吉と戦った小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いにも出陣し、家康の側で武功をあげました。
天正(てんしょう)18年(1590)家康が関東に移ったとき、武蔵国(むさしのくに)埼玉郡(さいたまぐん)栢間村、戸ヶ崎村(とがさきむら)、新堀村(にいぼりむら)、三箇村(さんがむら)、小林村(おばやしむら)などに5000石を与えられ、栢間陣屋(現在の栢間小学校付近)を構えます。晩年、病に倒れたとき、徳川秀忠が医師を差し向けましたが、治療の甲斐なく、慶長(けいちょう)7年(1602)4月12日に死去、享年76歳でした。墓所は善宗寺(ぜんそうじ)(菖蒲町下栢間)にあり、戒名は「天龍院殿(てんりゅういんでん)源誉(げんよ)善宗(ぜんそう)大居士(だいこじ)」です。
その後の内藤家は、3代忠俊(ただとし)の不祥事により危機を迎えましたが、正成の孫正重(まさじげ)の働きぶりと正成の三河以来の武功を評価され、栢間など正成と同じ5000石を賜りました。その後正吉(まさよし)のときに加増され、5700石の大身旗本として続き、明治維新を迎えます。
正成は武勇に優れ、特に弓や槍の腕前は抜きん出ていました。また親族を顧みないほどの忠誠心を併せ持ち、度々家康を感心させたほどです。その武勇等から徳川十六神将(じゅうろくしんしょう)の一人として数えられています。
栢間陣屋の門
所在地
栢間陣屋の門(菖蒲城址あやめ園) (菖蒲町新堀985-2)
善宗寺(菖蒲町下栢間2639)
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