第7回 旗本内藤家(はたもとないとうけ)
更新日:2018年7月25日
江戸時代、現在の埼玉県には、江戸の将軍を守るため、徳川家の家臣である旗本が数多く配置されました。久喜市域にも旗本の領地がありましたが、その中でも特に多くの領地を有していた旗本に内藤家があります。
内藤氏は、平将門(たいらのまさかど)を討伐した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔(まつえい)とされる一族です。戦国時代の初め頃に三河国(みかわのくに)(現在の愛知県)に移り住んだとされ、松平(徳川)家に仕えるようになります。徳川家康が天下を取ると、一族から多くの者が大名や旗本となり、繁栄を極めました。
久喜市に領地を持つ旗本内藤家は、内藤正成(まさなり)を初代とする家です。正成は家康の家臣として姉川(あねかわ)や三方(みかた)ヶ原、長篠(ながしの)の戦いなど著名な合戦に参戦し、数々の武功をあげました。後世、家康に仕えて活躍をした16人の武将を「徳川家康十六神将(しんしょう)」として顕彰するようになりますが、正成はその中の一人に数えられています。
家康の領地が東海地方から関東地方に移されると、正成も一緒に関東地方に移り、菖蒲領に5000石の領地を与えられます。正成は栢間(かやま)村に陣屋(じんや)を構え(現在の菖蒲町下栢間)、領地の経営にあたりました。
慶長7年(1602)、正成が病で床に伏すと、第2代将軍の秀忠(ひでただ)は正成を心配し、将軍専属の医師を栢間の陣屋に遣わせるという特別な待遇をしています。しかしそのかいもなく、正成はまもなく亡くなりました。
正成の墓所は菖蒲町下栢間の善宗寺(ぜんそうじ)にあります。善宗寺は正成が創建した浄土宗寺院で、旗本内藤家の菩提寺(ぼだいじ)となっていました。善宗寺には現在、内藤家歴代の当主やその夫人など22基の墓石があり、「旗本内藤家歴代の墓所( 宝篋印塔(ほうきょういんとう)ほか)」として久喜市指定史跡となっています。
正成の没後、内藤家の石高は7000石まで増えましたが、一部を分家に与えるなどしたため、最終的に菖蒲領5000石を中心に約5700石を有する旗本として幕末まで続きました。
旗本内藤家歴代の墓所
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