第65回 中島敦(なかじまあつし)の小説「斗南(となん)先生」
更新日:2018年7月25日
中島敦の小説『斗南先生』には、中島家の実在の人物が登場することや、「利根川べりの田舎」という表現で中島家の久喜新町宅が紹介されていること、そしてこの小説がほぼノンフィクションであることなどが、本市にとって意味のあるものとなっています。
斗南先生は、安政(あんせい)6年(1859)に中島撫山(ぶざん)の次男として江戸で生まれます。名前は端蔵(たんぞう)、名乗りはまさし、斗南・勿堂(ぶつどう)は号です。
敦も、小説の中で、「6歳で書を読み、13歳で漢詩漢文を能くした」と記し、「非常な秀才」「儒学的な俊才」と評するほどでした。
明治15年(1882)には、久喜本町宅に私立学校言揚学舎(げんようがくしゃ)を開いて舎主となりました。しかし、数年で弟の竦之助(しょうのすけ)に引き継いでしまいます。
明治21年(1888)に政事小説『野路之村雨(のじのむらさめ)』を著し、翌年に无邪志会(むさしかい)という政治団体を設立し、翌々年の第一回の衆議院議員選挙に立候補しますが、あえなく落選してしまいます。
その後、県会議員であった宮内翁助(みやうちおうすけ)(中島撫山の弟子、後に衆議院議員となる。)と意気投合し、明治26年(1893)に翁助と一緒に私立専門学校明倫館(めいりんかん)を設立して館長の職につきます。しかし、明治32年(1899)に館長の職を辞してしまいます。
明治35年(1902)に中国に渡りますので、久喜の地での目立った活動はこの頃でほぼ終わり、昭和5年(1930)に病気で亡くなります。
敦は、伯父・斗南先生の死によって、それまでの子どもじみた発想に気づかされ、冷静になって本当の自分の心をとりもどし、大人へと成長することができたのです。
皆さんも、ぜひ中島敦の小説『斗南先生』を読んで、市ゆかりの人物に思いをはせてみてください。
斗南先生(中島端蔵)
所在地
中島敦の案内板(久喜中央2-1-1)
久喜新町宅跡の中島敦の案内板(久喜中央2-6-26)
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