第8回 日光道中と一里塚(にっこうどうちゅうといちりづか)
更新日:2018年8月15日
江戸時代、栗橋地区には「日光道中」(現在は一般的に「日光街道」とも呼ばれています)が通っていました。
慶長6年(1601)、江戸幕府は、全国支配の一環として、江戸と各地を結ぶ主要街道の整備を始めます。日光道中は、江戸日本橋から日光東照宮門前の鉢石(はついし)(栃木県日光市)に至る街道で、寛永13年(1636)頃に完成しました。東海道・中山道・奥州道中・甲州道中とともに、「五街道」の一つとして重要視され、道中奉行が管轄していました。
寛政12年(1800)、幕府は五街道の管理を目的に、道中奉行所に、「五街道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」の製作を命じます。絵図は、実測の1800分の1の縮尺で描かれており、五街道や脇街道のほか、宿場の町並みや寺社、旧跡、一里塚などが詳細に描き込まれています。
幕府は、街道の整備に伴い、慶長9年(1604)に全国の街道に「一里塚」を築く命令を出しています。一里塚は、日本橋を起点に、街道の両脇の一里(約4キロメートル)ごとに築かれ、旅人の里程(りてい)や乗物賃の支払いの目安とされました。道中奉行所が作成した「五街道分間延絵図」のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」には、小右衛門(こえもん)村(久喜市小右衛門)に築かれた一里塚が描かれています。小右衛門の一里塚は、日本橋から13里目に築かれたもので、絵図には塚上に榎えのきと思われる木が植えられている様子が描かれています。また、日光道中沿いの権現堂川(現在の権現堂調節池)堤外には弁天堂が描かれています。この弁天堂は、後に一里塚の上に移築されたと伝えられています。
現在、多くの一里塚は取り壊され、その姿を失っていますが、小右衛門の一里塚は、弁天堂とともに、地元の人々によって大切に守られています。
一里塚
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